カナダで活躍する日本人、第30回目は、バンフ、キャンモア、ビクトリアと現在店舗拡大中のラーメン嵐のオーナー、関健太郎さんをご紹介します。関さんはカナダに来られてからちょうど今年で30年になるそうです。これまでツアーガイド会社、飲食店、ギフトショップと様々な経験を積まれ現在に至ります。今回はその30年の軌跡についてお話をお伺いしました。
苦しかったガイド会社の経営
私は1992年にカナダに来たんですが、まずカナダに来た目的は、日本でスキーのインストラクターを少しやっていたので、こちらでヘリスキーのガイドがしたいなと思っていました。しかし、雇用主のインタビューが英語だったので、当時全く英語が話せなかった私は早々に諦めて、日本人の旅行客を相手にするガイド会社に就職し、夏はツアーガイド、冬はスキーのインストラクターでカナダでの生活を始めました。
当時から色々好奇心旺盛だったので、2年ガイド会社で働いた後は、自分でガイド会社を立ち上げようと思いました。英語ができないのをどうするか悩んでいたのですが、英語ができないなら英語ができる人間を右に置けばいいと、友達からそんなことを言われたら少し楽になり、ちょうどその頃移民が取れたこともあって、半年くらいかかりましたけど会社を設立しました。
私がカナダに来たのはちょうど湾岸戦争(イラクによるクウェート侵攻)の後で、恐怖心から日本人の旅行者が減っていましたが、バンフにはその前のバブルの時期から6社くらい日本人経営のガイド会社がありまして、約10年くらいあけて私が二世代目ということで久しぶりに新しいガイド会社を立ち上げました。ビジネスとして稼ぎたいから始めたというよりは、こんな素晴らしい場所があることを、日本に住む人に1人でも多く知って欲しい、案内したいという思いからでした。元々喋るのは好きだったので天職だと思ってやっていました。
ではビジネスがうまく行ってたかというとそうではなく、借金も多くしましたし、ここバンフは冬が長くて半年しか旅行客が来ない(当時冬のスキー客も年々減っていました)ので、やり始めて4、5年経った頃、これは暮らしていくのも大変だなという状況になりました。
バンフで私が始めた後は、“なーんだ、健ちゃんができるんだったら自分でもできるはず”と皆に勇気を与えたみたいで(笑)、僕より若い連中が4,5社僕を追っかける形でガイド会社を始めました。逆に業者が増えてしまってお客様の取り合いのようになったこともありましたが、ぎりきりのところで何とか13年くらい続けました。来年こそはお客様が増えるだろう、来年はお客様が戻ってくるだろう、とずっと楽観的に考えていましたが、実際には9.11があったり、サーズがあったり、鳥インフル、豚インフルと毎年のように何かしら事件があって、この先は何もなければ来るだろうと待ってみたけれど、やっぱり戻ってこなかった、減っていく一方という状況が続いたのでこれは見切りをつけた方がいいと、思い切ってガイド会社をクローズしました。そして一旦日本に帰って寿司学校に行くことにしました。その時は結構落ち込んでいました。
バンクーバーで始めた飲食店経営
もともと中学生、高校生の頃、寿司屋をやってみたいというのがありまして、もうやけっぱちになって(笑)、最後に残した夢を一つずつやっていこうと思い、寿司学校を卒業した後にカナダに戻って、寿司もサーブする居酒屋をバンクーバーで始めました。ただ、現実は厳しくて食っていくのがぎりぎりで、これはちょっと続けられないなと2年でやめました。
ギフトショップを経て再びバンフへ
その頃知り合いから誘いを受けて、バンクーバーにある大橋巨泉さんのオーケーギフトショップに引っ張ってもらい、バンクーバー店でアシスタントマネージャーとして働きました。毎年夏にバンクーバーに4,5か月滞在される大橋巨泉さんのお世話もしていました。そうしたら巨泉さんからお前はバンフで10年以上やっていて知られているんだからバンフに戻れと言われました。
実はバンフを離れるときにて80人くらい集まって盛大に送別会をやってもらったので、今更帰れないと思ったんですけど(笑)、結局バンフに戻ってオーケーショップのバンフ店の店長を任されました。ただ、これも2年くらいやったんですけど、バンフは過去5年、10年観光客が減る一方、イコールお土産屋さんの売り上げもずっと右肩下がりの中で、右肩上がりにするのは僕の力では到底無理でした。その時に、ストレスで血圧が異常に上がってしまい、健康面からもこれ以上は続けられないということになり退職し、日本の病院に3か月くらい入院することになりました。
回復後は、またバンフに戻ってきてやっぱり飲食がやりたいと思い、しばらくバンフにある日本食屋さんで働かせてもらいました。それを2年くらいやった頃に、自分でやらないと給料も上がらないし子供も3人も居たので食べていけない、どうしようかと悩んでいた時に、昔のガイド会社の同期の友人から一緒にビジネスをやらないかと誘いを受けました。
実はその5年くらい前からずっと一緒にやろうと言われてたんですが、友達と共同経営というのは実際は難しいというのを周りを見て知っていたので断ってたんですけど、もう背に腹はかえられない、やっぱりやろうということになりました。じゃあ寿司屋か居酒屋か何をしようかというときに、僕のもう一つの夢でラーメン屋をやってみたいというのがあったので、その友達とラーメン屋を始めることになりました。
ラーメン嵐 の成功の秘訣は?
まず1年目で思ったことは、僕が働いていたバンフの日本食レストランは、カレーもありラーメンも出している人気店だったんですけど、日本人のお客さんはほとんどおらず、これだけ現地の人に日本食の需要があるのなら、バンフにはまだラーメン専門店がなかったのできっと需要があるだろうと思って始めました。バンクーバーでやっていた居酒屋では張り切って100種類くらいメニューを作って載せていたんですが、かえってお客さんが混乱して迷ってしまい、注文も遅いし、ちょっと手の込んだおつまみを出しても、結局お寿司だけ食べて帰ってしまうので、そういったことを振り返ると、今回は専門店にしたのが良かったのかなと思います。
今5年を過ぎて感じるのは、スタッフを大事にすることですね。そんなことをいうとスタッフから、“それほどでも・・”と言われるかもしれませんが(笑)、できる範囲でスタッフを大事にして長く働いてもらうこと。うちは離職率が本当に低く、これまで辞めた人間がいないんです。もちろん、色んな事情で日本に帰らなくちゃいけないという人はいますけど。特にこのコロナ下で2年間耐えられたのは、ずっと皆んな残ってくれたお陰だと思っています。
正直この2年間が店内飲食の規制もあって最も苦しい時期だったと思います。ただ、日本では考えられないと思いますが、ラーメンのテイクアウトを始めました。そうしたら意外に需要があるんだということがわかりました。皆さん職場が近所にある方が多かったのでスープと麺を別々にして持って帰ってもらいました。今だにこのテイクアウトが定着していて、売り上げ約の1割くらいを占めています。ただ、日本人の方はまずラーメンのテイクアウトはしないですね 。(笑)
それからこれも成功の秘訣になるのかもしれませんが、うちは最初から失礼な話ですけど日本人のお客様をターゲットにしなかったんです。なぜかというと、当時は安くやり始めたんですが、それでもラーメン一杯8ドル、9ドルもすると日本人の感覚では高すぎるので多分食べてもらえないなと思って。また、日本人のお客様にターゲットを合わせると味を変えなきゃいけないので、僕は初めからカナダ人(主に現地のコケ―ジャンの方)にラーメンを知ってもらいたい、食べてもらいたいと思って始めました。
バンクーバーの居酒屋でお寿司を出した時に学んだのは、現地の人は醤油をべちゃべちゃにつけてお醤油の味で食べるというイメージがあって、実際に醤油の消費量がすごかったんです。それでカナダ人は多分濃い味が好きなんだと思って、全てのラーメンのスープの味を濃い目にシフトしました。日本人や中華系の人はあっさりめが好きなようで、お湯をくれといわれることもあります。(笑) また、3割はカルガリーから来るチャイニーズ系の方なので、そちらに合わせるかどうしようか迷ったんですが、そこは目をつぶってローカルのコケ―ジャンに合わせることにしました。すると嵐は味が濃いめだとSNSに書かれて、それならいいと来てくれるコケ―ジャンが増えたりしました。
パートナーと会社をやり始めたときにモットーにしようと言っていたのは、“こだわらないことに、こだわる”ということでした。たとえば、スープ作りで僕も最初は骨からダシをとろうとしたんですが、ここバンフは硬水なので、スープのダシが全然出ないんです。異常に難しくて何度やっても思うような味が出せなかったので、諦めて豚骨スープのダシを作る専門の業者があるのでそこから購入することにしました。すると味も安定するし、何でも手作りでやればいいというもんじゃないということがわかりました。
日本のラーメン屋さんの2割くらいは体を壊して1年以内に店を閉めると言われているんです。つまり、人気店にするには夜中じゅうスープ作りをやらないといけないというのがあって、逆にラーメン学校では無理をしない経営をするように教えられました。席数も10席までのお店がいいとも言われていて、私のお店は3店舗とも20席以下です。そうすると並んで待たなければいけない人が多くなって、中には文句を言われる方もいるんですが、良い宣伝効果にもなるのでそこは割り切っています。
そして、最後に色々要因はあると思いますが、うぬぼれることなく毎日コツコツとやっています。
コンビニを始めたきっかけ
バンフ店はお店が2階にあって、飲食が入っているビルではないので目立たないんですね。表にも看板を出せるスペースがなく、それでも今の時代SNSでお店をみつけて来てくれるんですが、場所がわからないという電話が多かったんです。それでたまたまお店のすぐ下の階に畳3畳ないくらいのスペースが空いていたので、そこに案内人を置いたらいいのではということになったんです。ただ、それだけでは家賃もカバーできず勿体ないので、日本のコンビニのようなものをやろうということになりました。
バンフには日本の食材を販売する店がないので、ラーメン屋をやるために食材を仕入れている日本の会社から、その会社が扱っているまずはポッキーなどのお菓子を買って並べてみました。そのあと、中が見える大きな冷蔵庫を買って、そこで朝早く2階のスタッフに作ってもらった弁当やおにぎりを並べて売ることにしました。最初はおにぎりも弁当も丼も余ってばかりで、これはまずいなという感じだったんですが、そもそもそういうものに現地の人がなじみがなかったからだということが後になってわかりました。
続けていたらだんだんと広まっていって、忙しい人はさっと来てさっと買って帰るようになりました。おにぎりは日本のコンビニで一般的な、ラップしてあって紐を引っ張って開けるタイプですが、こっちの人は皆正しい開け方がわからなかったので、スタッフがこうやって開けるんですって教えたりして定着させました。(笑)
やり続けるのも大事だと学びましたね。
最後に一言
“カナダで活躍する日本人”というタイトルからかけ離れた、“皆さんに勇気を与えるための失敗だらけのカナダ生活30年”ですけど、外国で、カナダで、こうやって家族を持って、家族を養いながら楽しく生きていくこともできるんだということを皆さんに伝えたいです。
ガイド時代にもよくお客さんに言ってましたけど、日本では30歳過ぎたら財布に1万円、2万円入れてないと不安で家を出られないと思うんですけど、こちらではたぶん1ドルか25セント持って、(当時セルフォーンがなかったので) 電話を掛けられる状態にあれば、ランチは家から持って行って全くお金を使わずに一日を過ごせて、こんなに素晴らしい暮らしができるんです。日本では僕も短気な方で怒ることが多かったんですが、カナダに来てから全く怒らなくなりました。苦しい時もあまりネガティブに考えなくなったと思います。
上原さんからこのご依頼を受けるまで30年間振り返ったことがなかったんですけど、こうしてみると波乱万丈だったなあと思います。これを読んでくださる方に知って頂きたいのは、仕事が決まっているのは一番いいことですけど、ちょっと違うかなと思ったら辞めることはそんなに大変なことではないと自分は思っていて、ただ常に好奇心を持ってやりたい仕事、やりたいことを心に描いていることが大事だと思います。
僕はワーキングホリデーで来た人を雇う際に面接で必ず聞くことがあるんですけど、それは、1年働いたらワークビザでカナダに残りたい気持ちがあるかどうかです。絶対残りたいですという人には、できる限りサポートするから頑張るように言います。それと移民がとれれば人生が変わるとも言います。僕はカナダに来て日本を離れたからこそ余計に日本が好きになったし (特に日本の桜の写真など見ると涙がでます) 、ハイキングをしたり日本では考えもしなかったことが一番の趣味になりました。カナダに住むことの素晴らしさを初日から伝えています。
日本で10年勤めた会社を何の不満もなかったんですが、何か違うなという思いで辞めたときは、まさに清水の舞台から飛び降りる感じだったので、カナダに来た時はもう何も怖くなかったです。とにかくやりたいと思ったらやってみる。若い人にもよく言うんですけど、自分も60年生きてきて、そうそうチャンスというのは訪れない。チャンスが来た時にそれを掴まなかったら次のチャンスは5年、10年待たないとやってこない。なので、チャンスが来た時にいつでもをそれを掴めるように、常にやりたいと思うことを探し続けること、別に一つじゃなくてもいいんです。それと失敗することで経験値が上がってくると思うので、皆さんには失敗を恐れずチャレンジして欲しいと思います。