第五回 主体性と倫理「感」

2回前のブログで予告していたように難民の「主体性」という方向性から話をはじめ、最近の日本のニュースで目に止まった「難民にしては元気すぎる。本当の難民はもっと力がない」と難民審査参与員がかたったことについて、その言明に対する不快感の原因についてを今回は考えてみた。

今まで話の流れとしては、「わたし」を埋没される形で提示される記号化された「あなた」としての「難民」を難民みずからが表象することの矛盾をシステムが強要してきたということ、そしてそのシステム自体が難民をその記号に合わせる形で逆照射し、わたしたちの「知っている」難民を生み出してきたことを三章分にわたって述べてきたつもりだ。(四章はたまたま違った事柄になってしまったので、そこはご容赦いただきたい。)

こうして知識化された難民には「わたし」がない。そもそもそうすることで、無機質でシステム化された国境という制度において管理をしようとしてきたのだから当然といえば当然である。この国境という恣意的に引かれた境界線をもとに生活をしている中で、今日メディアにほんのごくたまに扱われる難民がそうした恣意的線を「無法」に超える「難民」という表象の域を出ないのはある意味で仕方がない。というもの、現在のメディアが消費を前提にしている、すなわちその場その時にホットな話題に安易な「わかった感」を提供する媒体である以上、質的に優良なコンテンツよりよりも、求められているものを提示することそのものに意味があるからだ。

そうした消費を前提とした情報伝達手段としてのメディアにとって「わたし」は複雑すぎる。私たちは、万人には万人の生活があることを知っているし、それが同じように難民の人々に当てはまることを「常識」として知っている。しかし、情報を消費の対象、つまりは安易な「わかった感」に落とし込むには雑音が多すぎるのだ。

たとえば個々人のすべてのバックグラウンドを生まれから、宗教観、政治活動、
etc.に至るまでをレポーターが伝えたいと思っても、難民である「わたし」のこのような形での表象は消費の対象としては残念ながら求められていないのである。かくいう自分も、紙面と書く気力という言い訳をもとに便利な etc. という言葉で「わたし」を包括しようとしている。

少し話が脱線するが、伝えるということの本質はそこにある情報をそっくりそのまま地点Aから地点Bに移すことではなく、無数の関わりのない情報、このケースでは「わたし」からいらないものを削ぎとって十分に咀嚼できるようにすることだと思う。その究極としてメディアがよく取る方法は、第一回、第二回の写真にでてきたような代表的な個人の抽出を用いたグループとしての表象である。(ボートに溢れかえる人々、海岸に打ち上げられた幼児、ハンガリーの国境に溢れかえる人々など)つまりは難民の記号化である。それがある特定の難民像を作り上げてきたことは述べてきた。そうして、できるだけ削ぎ落とされた乳児食のようにほぼ咀嚼する必要のない、というか飲み込むしか方法がないようなものを提示して、「ほら、このようにしか説明出来ないでしょ?」と問う。その角の立たなない情報を作り上げることで、その説明の作られた絶対性を惜しげも無くみせびらかして、さも誇らしげに語るのだ。これが真実ですみたいに。そうあることが「客観的」であり「科学的」であるかのように。

もちろんこういった昨今の難民の誤解や間違った表象への処置として難民の語りやドキュメンタリー映画といった、出来る限り「わたし」を「わたし」として登場させようとするメディアも存在する。しかしそのような流れにおいても残念なことに、上の「客観」に対する「主観」、そうしてそこから紡ぎ出された主観的角度から映された「わたし」の断片の集まりがオルタナティブな真理としてあたかもそれ自身が「わたし」そのものであるかのように理解されつつある。

まず、誤解されたくないので言わせてもらうと、こういった主観的な見せ方を好むメディアが嘘を報じているとかそんなの取るに足らないこといっているのではない。あくまでそこに表彰される断片としての「わたし」はいかに主観的に、一人称的に、ドラマティックな人間物語としてかたられようとも「わたし」ではなく、「伝える」作業の中で生まれてきた、二次創作的「わたし」なのだ。

つまり、形はどうであれ「わたし」の表象(言語的なものに限らず、映像や音響といった視覚的情報によって伝わるものも含め)にはどうしても限界があると思うのだ。それはもちろん難民についても例外ではない。難民の幼児が力なくエーゲ海に打ち上げられる、その無力さ、儚さ、やるせなさが報道されれば、その一方で、結婚式前の新婦のウェディングドレスのジッパーを近くにいたシリア難民が直したというお話の中で、「自分たちもこの街に来たのだから、市民の一員として社会に役に立ちたい」と難民の彼が話したことがニュースになる。カナダに来てTim Hortons (カナダの国民的なコーヒーチェーン店)でコーヒーを買い贔屓のアイスホッケーチームができたことを難民が喜びとともに語る記事があれば、同じ新聞がトロントにきたものの住宅支援が滞り、ホテルに詰め込まれ、教育の権利が奪われていることを嘆く記事も書く。こうした状況は難民というカテゴリー内での本質的な分化、つまり、難民のAさんはこうでBさんはこうというように別の個人に別々の性質を当てはめるのではなく、何かを分類する時にその分類されるもの自体がもつ内的な背反性と捉えたほうがよい。

つまり、難民は制度として社会的弱者であることを自らにも課すことを求められるが、それは必ずしもそのように振舞わなければならないわけではない。制度上社会的に保護されるべき「わたし」を一方で内在化しつつも、その苦境を生きようと強くあろうとする。それを仮に「弱い」わたしと「強い」わたしと呼ぶならば、二つが同時的に「わたし」の一部であることは、片方の事実を歪曲するものではない。そうした相反するものをなんとかして整った状態に保とうとする様式を「主体性」と自分は呼びたい。

「主体性」は行動の一様式として滲み出てくるものであって、ある結果の性質ではない。そうしたことを考慮して、「主体性」ということを考えると、「主体性」を語るということが、難民を国家の社会福祉の食いつぶしといって「愛国心」(というか実はただの Xenophobe)を語る連中がいう「自助」でもないのがわかってもらえるのではないだろうか。こう言う人たちがいう「自助」は常に強い「わたし」の性質でしかない。何かやってみました。うまくいきました。ほら、わたしは今自分のことを自分できちんと養えているでしょ。そういった後付けのものだと思う。つまり、「自助」を誰か別の人に要求している人というのは得てして、自分がうまくいったことに何も反省をしないで、なんでかよくわからないけど自分もこうなったんだからお前もできるはずだという理論を歯牙にもかけず吐き出すことができる。彼らは常に「強い」わたしにしか興味がないし、それ以外のものもおそらく自分じゃない自分とでも思っているのだろう。こう言う人は自分にも、他人にも思いやりのない人だ。なぜなら自分にも他人にも「強い」わたしと同じもの以外は許せないからだ。

前置きが長くなってしまったが、そろそろ最近不快に思った出来事の中身についての話をしようと思う。最近たまたま見かけたニュースで「難民にしては元気すぎる」といった難民審査参与員(難民の判決に異議が唱えられた際に法務大臣が意見をあおぐ人たちで、この人たちが実際に審理手続きを行う)が散々叩かれていた。(その他の難民審査参与員による不適切な発言がJLNR 全国難民弁護団連絡会議によって提出されていたので、ここにリンクを共有させてもらう。)
この発言に対しての不快感は難民審査参与員に対してはもちろんのこと、世論の反応のずれにも少なからず疑問を持った。それはこう言った参与員に対して彼らは難民の実情を知らなさすぎるといった事実認知の問題をあげる人が多かったことである。つまり、彼は本当に「専門家」なのか、彼は難民のことを「知って」いるのかという議論だ。

今までの議論に基づけば、彼はむしろ「難民」をよく「知って」いる部類だと言えよう。そうでなければ、難民にしてはという言明が彼の口から出てくるはずはない。彼も述べているように、彼の言明はおそらく「客観的」なニュースにきちんと基づいている。ただ、彼の集合知としての「難民」が目の前に実体験を持ってあらわれた難民が提示する「わたし」に対して当てはまらなかった。そして、眼前にあらわれた彼の「知らない」難民である、「わたし」との出会いの場において、その「知らない」に対して、手前の知識に無理やりあてつけるしかできなかったのである。このことから、まず難民の「主体性」を理解しようともしない彼とそれを事実誤認という形でしか解決しない世論に腹が立ったのだろう。

もちろん、「主体性」を理解するのは難しい。なぜならどう考えても正反対に見える性質を線引きしたカテゴリーとしての「難民」に認めなければならないからだ。そして、わからないということを認めそれに対して敬意を払わなければならないからだ。自分がこのBlog で再三にわたって述べてきた「わたし」というのは、本来「わたし」以外の誰も知り得ることのできないものであり、私たちが知り得るのは断片、もっと厳密に言うのなら、言語(それは話し言葉や書き言葉としての日本語や英語といった狭義の意味ではなく、情報を「伝える」手段というかなり広義な意味)によってなんとか見えてくる、ようやくあらわれたかすかな「わたし」の質感でしかない。その頼りない質感を残すことで「わたし」が「わたし」を伝えるために取る方法、その方法を説明するのに使用されるモードが「主体性」という言葉の本質だと自分は思う。

今回の主体性の話は難民に限ったことではない。いわゆる社会的弱者としてある像が記号化されてきた人たちにおいて私たちは本当に「主体性」を理解しようとしているだろうか。そのような関係において、重要なのはこの「主体性」を想像できるかだと思う。それは倫理「観」といってあたかも観えることをベースにした呼び方を使うには少しアサーティブで、もっと頼りない感覚をベースにしているような気がするのだ。

背反性をふくむ、一見、二見、三見しても矛盾する「わたし」が「主体性」をもって私たちに自ら提示してくれる、そんな状況に身を置いたとき、とりあえず自分の手持ちのもので無作法にその「わたし」を取り込んでわかった気になるのではなく、とりあえず判断を留保し、その出会いに敬意を払う。こう言った態度がこの場での「Ethnics(倫理「感」)」のある行為であると思う。ということは、やはり難民を「難民」らしくないといった彼は、目の前の「わたし」の「主体性」を想像することができなかった「倫理「感」」のないやつなのだ、だから自分は不快に感じたのだという帰結をもって今回のBlogは終わりにしようと思う。