第一回 「難民」になるとは?

アラブの春にはじまり、シリアの難民「危機」からすでにはや5年以上の月日が経とうとしている。UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の発表によれば、これまでに1千万人以上の人が慣れ親しんだ家から避難し、そのうち約500百万人の人が祖国を離れることを余儀なくされてきた。ギリシャの海岸に山積みにされたライフジャケット瓦礫の中でたたずむ灰にまみれた少年、  砂浜に打ち上げられた幼児の遺体、その一方で、カナダの空港での移民省大臣や一般大衆の歓迎ムードトロント市内で行われたシリア難民のためのThanksgiving Party 、カナダの主要メディア内でも対照的な記事が飛び交っている。これらシリアの人々—このような記事の中

CBC:Haunting image circulates of 5-year-old Syrian boy rescued from Aleppo rubble

の全ての人が制度的な「難民」という枠に当てはまるわけではない—に焦点を当てた記事の一方で、世界中の国々による対応はこの歴史的人権問題に足並みを揃えることができないといった印象が強い。大まかな政治情勢を、語弊を恐れずに簡略化するとすれば、それは人の移動をどのように国家が制御するのかという議論に収束していくような気がする。

そのような国家による制御への取り組みの中で、シリア難民「危機」は当事者—シリアの人々—の手を離れ、いつしか周辺の国々に対する国家「危機」へと様相を変えてしまった。

The Star: Canada ‘an inspiration’ on Syrian refugee resettlement

この国家「危機」の枠組みは国際会議という場をもって、もっともわかりやすく現れる。そこでは、名義上(本当に彼らが全国民の意思を表しているかは別にして)各国の首相が全ての自国民を、そしてその共同体としての国家を代表して議論を行う。日本に住む多くの人々が国連での安倍首相の発言を、日本という国を代表する言葉と認識するように、この場で発言された数々のシリア難民に対する懸念は、共同体としての国家に対する懸念として人々に認識される。そうして生まれた新たな「危機」という枠組みは、当事者だったシリアの人々を市民戦争の「被害者」から国境を脅かす「脅威」に変えてしまった。

もちろんこれをすべて政府の責任として問うことはいささか横暴だと思う。というのも、国家対話の中で作られた構図は様々なチャンネルを通して現実味を帯び、そしてより小さな社会集団でもそれが再現される。言い換えれば、そのようなより小さな社会集団での経験を通して、「私」は共同体としての「私たち」の一員になるのだ。例えば、間違った認識によって作り上げられたイスラム教をはじめとする「違い」(この「違い」に対する国家の干渉を否定することはできないが)についても、その多くが、政治的議論に端を発しているとしても、そういった「違い」に関する誤った認識は、学校、職場、公園など日常生活の中で繰り返される偏見や差別によって助長されていることは多くの人が経験として感じていることではないだろうか。つまり、そうした「違い」はそこに「ある」もしくは「あった」のではなく、むしろ「つくり」、「つくられて」いったといった言い方のほうが腑に落ちる。

そうした「違い」は、嘘を本当にするというよりも、事実の断片を伝えることしかできないというメディアの限界にも起因するところがある。というのも、これはほんの一つの例ではあるが、メディアではある時期、毎日のように報道されたものがあった。それはある種、暴力的様相を帯びたシリア難民の大移動の様子である。そのような集団としての「彼ら」の移動は、危機の規模の増加—ただ単に1から10、10から100、といった紙の上での0の増加—に置き換えることはできない。集団として「彼ら」の中で、「私」は埋没する。このような報道も、この枠組みに基づきそしてそれを固定化していると言ってもいいだろう。

そうした様々な方法で確立されていく枠組み、そしてそれを通した情報によって生み出された「ヨーロッパや周辺諸国=「私たち」、シリアの人々=「彼ら/他者」」といった感覚はますます強固なものとなる。この対立の中で、今までのアフリカや中東からの難民や移民の経験や歴史はなおざりに—もしくはそれそのものに関する情報をあたかも上書き保存するように—シリア難民「危機」はヨーロッパの国々の文化や治安、そして国家そのものを侵食するように語られる。その中で生みだされてきた確固たる国家という意識、そして世界地図の上にインクではっきりと印刷された線のような国境という概念は、物質的(例えば、ハンガリーの難民フェンス)、制度的(例えば、EUとトルコの難民秘密協定)な方法によって現実のものとして私たちの眼の前に現れつつある。そうした中で、人の移動の管理は自国民に対する国境管理の義務というよりも、ある種の特権として自明のものとなりつつある。

The Telegraph: Hungarian politician suggests hanging pigs’ heads along border to deter Muslim refugees

こうした国家「危機」—国家の特権の行使と脅威—という枠組みの中で、多くの日本人の反応は未だに対岸の火事の域を出ない、というよりも出ることができないと言った方が私個人の感覚には近い気がする。この国家「危機」という枠組みの中では、日本国民としての「わたし」は、その二者関係にすら入ることができない第三者、もしくは—パリでのテロで多くの人がフェイスブックのプロフィールを青、白、赤のトリコーロールに染めたように—多くの場合がヨーロッパや周辺諸国の「私たち」に同化する。明確に線引きされた「私たち(国民)と他者」、そしてその多くが「違い」によって表される関係の中で、私たちの共感は向こう岸の「他者」まで行き届かない。そうして、私たちはしばしば、「たまたまある家庭、ある地域、そしてある国に生まれたから…」、「日本には関係ないことだから…」というような、いわば「Lottery of Birth(人生の宝くじ)」でその問題を片付けてしまう。

しかし、それは無批判に現実すなわちその枠組みを与えられたものとして鵜呑みにしているだけのような気がしてならない。このBlog、このシリーズの目的は、私個人の意見を通して厳重な国境管理を行う国家を悪の権化のように弾劾することではない。むしろ、国家による「正当な」国境管理は必要だと考えているし、その議論は活発に行われるべきだ。また、同じように、ただ単に難民の現状をさまざまなデータを通してありのままに伝えることだけを目的としているわけでもない。というのも、それだけでは対岸の火事の無機質なデータ—例えば、火の温度、焼失した家や建物の数や形、そして数としての死傷者—を提示しているだけで「私たち」と「他者」とのギャップは埋まらない。そこで、このBlogでは、難民に関するデータとともに、そこからさらに一歩踏み込んで、無批判・「当たり前」に対する批判・国家や制度というものに対する無自覚な前提についての批判的議論を少しでも多く共有することができればいいと考えている。そうすることで、対岸の火事が遠くで見るよりは激しく暴力的に燃え上がっていること、その中には必死に生きようとする人々がいること、そして向こうとこちらの岸を隔てる水流や火事そのものが自然現象というよりも、歴史という流れの中で様々な人為的要因によって作り出されてきたことが徐々に鮮明に見えてくるのだと信じている。

今回は、第一回ということで、前置きが長くなってしまったが、まずはこの国家「危機」という枠組みの背景にある「国」そして「国家」という考え方、その境界線と、そしてそれを越えるということについて、少し歴史を振り返りながら考えてみたい。国の成り立ちということから話し始めると、とてもこのBlogシリーズでは追いつかないので、国家の枠組みの中で現代社会における「難民」という概念がいつ生まれたのかということに限って、国境を越える移動という観点から話をしたい。

主権国家の成立にまで戻って話をすると、その始まりはウェストファリア条約と呼ばれる1648年の国際条約によるものとされている。しかし、国家の成立=国境の管理の開始というわけではい。むしろ、今日のハイテク技術を駆使した徹底した国境管理に限って言えば、その後の数百年の主権国家の歴史から見ると、ほんのここ数十年での出来事に過ぎない。この数十年に至るまでの過程で、国境移動と管理に関して、鉄道や航空機の発明、インターネットの発明、二度にも及ぶ世界大戦など多くの歴史的出来事が起こった。その中でも、国境を越える移動という観点から興味深いのはパスポートの発明だ。国家の成立が1648年だとすると、人の移動を制限するという意味での書類についてはすでに紀元前のローマ帝国やバビロニア帝国などでも確認されている。つまり、いわゆる原初的な国の成立時期から、国境を越えてくる人々の管理は一部書類を通して、国により行われてきたことがわかっている。しかし、その多くはむしろ、パスポートというよりも、現在のビザ(査証)の役割に近い。つまり、その書類そのものの本質は、国の、もしくは国王個人の許可を示すものであり、個人を特定化することを目的とはしていない。

passportパスポート の登場によって、国際的移動において重要なのは今までのただ単に許可をとるということだけではなく、その紙に示された「あなた」であることが求められるようになったことだ。パスポートは、顔写真やその他様々な個人情報や身体的情報—現在では生体認証といった生物学な「身体」に関する情報にまで議論が及ぶわけであるが…—を含み、それを特定の個人と一致させることを目的としている。その情報の管理はその個人が属す国家に特権的に委任されることとなった。そうした情報を有し、そして国家間で共有することによって、国家は人々の移動を単なる労働力、「ヒト」の移動ではなく、特定化された「あなた」の移動として管理することが可能になったのだ。そして、居住地とは別の国家—つまり「他国」—によって特定化された「あなた」の存在は、その国境内で概念的に新たな国境を個人間においても構築することになった。
移動の際に「あなた」であることはほぼ同意義的に、その「あなた」の情報を管理する国家に属することでもある。ビザやパスポートの申請、国境警備、税関、海外旅行会社との相談に至るまで、国境を越えるという過程の中で、何度自分が日本国民であるという証明をしなければならないかを数えたことがあるだろうか?その反復される国家による「あなた」の確認と「あなた」による国家への所属は、人々の国家帰属意識を強めていった。なおかつ、その国境を越える移動そのものが、特定の個人であることを必要とし、その個人が国家による管理の対象であることを自明の事実とかしてきた。そして、「個人」の管理の可能性とともに、そもそも国境を越える際のパスポートの所持の義務化自体、第一次世界大戦戦時下における、国家に対する敵の排除といった「私たち」と「他者」の仕組みを内在していたことも忘れてはならない。こうした仕組みは、このように当たり前のように思っているパスポート、たった一枚の書類によって現在の私たちの難民に対する考え方にまで引き続き影響を与え続けている。

フリシチョフ・ナンセン
在日ノルウェー大使館(Norway the official site in Japan)

現在の難民保護の必要性は、パスポートの所持が義務化された第一次世界大戦の直後、多くの戦争捕虜と避難民によって顕在化した。彼らは第一次世界大戦とその後のロシア革命によって生み出された国家をもたない人々であった。彼らの生活状況はパスポートの所持の義務化を通して悪化し、彼らの生存そのものを脅かしていた。パスポートが義務化された国境管理において、どうしたら戦争を逃げ延びた人々が国境警備隊によって収容されることなく、自由に移動し、教育を受け、生活を送ることができるのか、その問題を解決するために生み出された最初の難民保護の仕組みが「ナンセン・パスポート」 である。国際連盟の名の下に新たに発行される「ナンセン・パスポート」をヨーロッパ諸国に認めさせることによって難民の人々に法的な立場を与え、彼らの移動、居住、教育の自由を保障したのである。この革新的な取り組みによって、1922年だけでも150万部ものナンセン・パスポートが発行され、多くの人々の命が救われた。その類まれなる貢献をたたえ、1954年以降、難民支援に多大なる貢献をした人には彼の名前を取って「ナンセン・メダル」が送られることになった。そうして、彼の死後も、難民システムはこのシステムを土台に発展していくこととなった。

しかし、どんな素晴らしい薬にも副作用があるように、この仕組み自体のその後に与えた影響は批判的に考察されなければならない。つまり、この「ナンセン・パスポート」がどのようなアプローチを定常化したのかということをないがしろにすることはできない。パスポートの発明により、難民とは国家を失った存在、もしくは失ったも同然の状態の人々を特定して指すようになった。すなわち「あなた」の情報はその管理下を離れ、そして国際移動において「あなた」であることを確約する術を失ったのである。にもかかわらず、国家によるパスポートを用いた国境管理は「あなた」であることを要求する。そして、その要求に応えるように、新たに「あなた」を規定する書類が発行され、それによって難民ははじめて「難民」になるのである。つまり、逆説的ではあるが、ナンセン・パスポートによって、難民は国境という場において「あなた」である術を失った存在であるにもかかわらず、「難民」というステータス—新たな「あなた」である方法—を手に入れる必要性を課せられることになったのだ。そのステータスを発行できるのは、「ナンセン・パスポート」では、超国家的な国際連盟という組織であり、その発行手続きも比較的シンプルなものであった。そこでは、創始者であるフリチョフ・ナンセンが「人間への愛、それこそは最も具体的かつ実践的な政治である。」といったように、国境管理の延長線上としての国家による難民の「選択」という考え方はなかったのだろう。この後に続く国家による「難民」の選択とその後の難民システムの行く末、その全てをこの「ナンセン・パスポート」のせいにするつもりもない。しかし、その始点としてのこのアプローチの意義は、今の制度そしてその元となった考え方を知る上では非常に重要である。このような、難民に「難民」になるという必要性を課すシステムは、時間の経過とともに複雑化され、当初の超国家的組織の手を離れ、その権限も次第に国家へと委任する形をとるようになっていった。その中で、国家の主権とUNHCRや国連といった超国家的な組織の役割、その議論の中で管理の対象、すなわち「他者」としての「難民」はますます制度化されていくことになったのだ。(Blog第2回へ続く)