第二回 「難民」問題とは?— 構造(Structural)の問題か?

第一回blog(「難民」になるとは?)では、難民が「難民」になるという矛盾した必要性がどのようにして生まれてきたのかを「パスポート」の発明による「あなた」の管理と「ナンセン・パスポート」という観点から紹介した。今回のblogではその後の国際難民支援の枠組みがどのように「難民」を「他者」として制度化していったのかを国際難民条約における定義という観点からさらに議論していきたい。しかし、その前に、この議論をするフレームワークをより明確にしておきたいと思う。というのも、人道主義、博愛主義に端を発するフリシチョフ・ナンセンの取り組みが、それ自体を必ずしも特定の悪意や憎悪といった非人道的チャンネル(人物や組織)を通したわけでもないにもかかわらず—たとえば、ヒットラーのユダヤ人迫害のような明確な人種差別的な政府組織によってでもなく—みずからの排除メカニズム的側面を強めていった事実をどのように理解し、分析的に考察できるかという問題にぶち当たるからである。この疑問に対するフレームワークを機能(Function)、構造(Structure)という観点から明確にした上で、その後の国際難民支援の取り組みについて、難民の定義とその定義が意図する、そして作り上げていった難民像について議論に移りたいと思う。

そもそもこの疑問、それはどういった考えに基づいているのだろうか。この疑問、つまり、「悪い」「非道徳」な組織・システムは単純に「悪い」「非道徳」な人間、もしくはそのような人であれ出来事であれ、判別可能な原因によって生み出されるという固定観念からの脱却についてを、今回は、「社会システム論」という考えから少し話したいと思う。社会システム論の大きな特徴は社会の細分化可能性と「全体」が「部分」の単純総和ではないということの認識にある。制度や法、文化や習慣といった私たちの行動を制限し、誘導する要因を細分化し、社会の構成要素として独立した一要素としてみなすとともに、社会を一つの集合体として、それらの構成要素の相互作用によって「機能」を生産物として生み出すメカニズムと捉えようという試みである。それは、多少のニュアンスの違いを恐れずに言うのであれば、社会を一つの機械のようにみなすといえばわかりやすだろうか。

ここで重要なのは、このようなアプローチの利点は、良くも悪くも、あくまで社会の構造とその構造を作り上げていった社会的要因の分離にあるということだ(この姿勢についての批判は後のBlogで考察したいと思う)。つまり、機械のねじや歯車のような部分を「社会」といった複雑な構造の中にも明確に見いだすことができるという考え方である。そうした分離可能な社会要因、すなわち特定可能な原因としての要素は、ねじや歯車がある特定の形をもち、その決められた場所以外では役に立たないように、そうした構造の中に適切に置かれることによって意味を持つ。その相互作用によって、「全体」としての社会がうまれるのだ。

こういったシステマチックに構築された社会像において、個人や団体—難民や国境警備隊などからNGOといった非政府組織、国家、超国家組織に至るまで—といった主体としてのシステムでの登場人物は、社会構造によってその行動、考え方の根本を形作られていると考えられる。ここでいう、社会構造というのは階級といったステータスのようなものから文化や価値観のような価値フレームワークにまで及ぶ。そのように複雑化されたメカニズムとしての社会においてしばしばその生産物としての「機能」は、その機能を生み出すプロセスをブラックボックス化する、というよりもむしろその複雑さに私たちが圧倒されるという言い方が正しいのかもしれない。イメージとしては、私たちが、コンピューターやインターネットを「0」と「1」だけで構成されたマトリックスから理解しようとするようなものといえばわかりやすいだろうか。このように、「プロセス」=構造の中身は、普段の生活では見えないし意識されない。しかし、それは必ずしも知る必要がないことを意味するわけではない。なぜなら、そうした構造によって「見えない」要素というのは最終生産物における意味づけ作業において非常に重要な役割を担っていることがしばしばあるからだ。もし、その複雑なプロセスを短絡的、飛躍的、実際には中身のない因果論によって理解しようとするならば、その理解にはかならず歪みが生じてしまう。

いろいろと、回り道をすることになったが、何が言いたいかというと、今回のBlogで伝えられるのも、そのような構造の中の数歯車に過ぎず、それ以上では決してない。そのため、社会の複雑さを前にした時に安易な答えに走ってはいけないと思う。もし、そこに歯車が見えたのなら、まずそれを歯車として認識する事、つまりは社会という複雑なメカニズムを無理に単純化する事なく地道に捉える事。そうして安易な安心感に少しばかりあらがってみることをお願いしたい。

本題に戻って、上記のようなフレームワークを拝借すると、この疑問—ステレオタイプな「悪の組織」論—の原因は構造と構造の要素を構築する社会的要因の同一視もしくは混同にあると考えられる。国際難民支援を、「難民」と定義される人々の基本的生活の権利を擁護し、支援するという「機能」とその支援が実現可能なものとして現れる、もしくはそのように理解される「構造」とに分けて考えてみることで、この間違った同一視の根本が見えてくる。

感覚的、経験的に想像できるかもしれないが、このような「機能」のポテンシャルはその「構造」におおいに依存している。なぜなら「構造」はその「機能」を実行するリソースを共有したり、そもそも「機能」自体の定義を通して、「機能」の存在を自らの「構造」の仕組みに内在化し、そのプロセスにおいて「機能」そのものを変形、時には創造したりする。

この前の第一回では、その構造を構築するという点における「あなた」という視点から、難民支援がどのように国際問題として認識されてきたのかということをパスポートの歴史に触れながら紐解いてきた。今までの取り組みを見てみると、そのように超国家的問題として認識された問題を、既存の国家という枠組みをベースに解決しようとしてきたし、今でもそのように感じることは多い。そのような国家レベルの対策では、国策として、実際に金銭的、さらには人員的に、その国際問題に対する予算が割り振られ、特定の役割を持った組織やチームが構成される。そのように割り振られ、特定化されたリソースを通して、難民が「難民」になるプロセスは、合目的的—難民を助けるというよりも、まず難民を「難民」として扱うために—整備されてきた。その整備されたシステムを整備する過程は国家内にとどまらず、時には国家外に—難民支援においてこの最もわかりやすい例が領土外で複雑化するボーダーコントロールである(次回Blog参照)—様々な機関がつくられる。

このような構造のうねりの中における機能に目を向けることは、人道支援という「機能」を国際連合から草の根運動までをつなぐ一つの大きな社会「構造」としての国際難民保護・支援レジーム(International Refugee Protection Regime)を私たちに突きつける。そのような意味でこのレジームという「構造」は、私たちの人道支援を可能にし、実行するに「メカニズム」であると同時に、私たちの行動をその構造内に個人として取り込むことで制限、制御する。このようなアプローチによって描き出される国際難民庇護・支援レジームは、「構造」と「機能」の密接な関係性を描き出し、その関係性の中で「構造」が倫理や社会的価値観といったものを通して「機能」を制御するさまを体現する。そうして構築された社会的価値観というのは、もちろん難民の保護・支援といった機能的側面と自らの存在を合目的化する組織の存続という観点からも論じられなければならない。そうした構造と機能の視点を持つことによって、国際難民支援の変遷をいつもとは違った視点で見られるのではないかと思っている。

ナンセン・パスポートが決定づけた、「あなた」の管理の延長線上としての「難民」の保護は、ナンセンの死後、その発行権限を国際連盟に所属するナンセン国際難民事務所に委ねられることになる。それまで、ナンセンという著名人、カリスマ的指導者と各国という構図にとどまっていた難民保護の仕組みは、これを機に正式に超国家的組織の手の元へと渡る筋道が徐々に作られていくことになる。それは、問題解決の手段としての国際化であり、同時に組織、そうした仕組みの存在意義の合目的化であることも忘れてはならない。こうした国際問題としての難民問題の国際問題としての構造化は第二次世界大戦の大量のユダヤ人難民の存在への対応によってより顕著に現れることになる。というのも戦後「処理」の一環として発足した国際連合において、「UNHCR」国連難民高等弁務官事務所という新たな組織を構築することによって、ユダヤ難民問題ははじめて取り組むことが可能な国際問題と認識される。この問題解決のための、合目的的、さらには合理的帰結として体現化された組織において重要なものは、その目的の定義付け、すなわち組織そのものの権限の確立である。そのような必要性にかられ、UNHCRが率先して難民の定義付けを行ったのは想像に難くない。1951年の国際会議で発行された「難民」の定義は、1967年に多少の修正が加えられたが、未だに現在の難民支援における「難民」というステータスを国家が与えるべきかどうかの判断基準になっている。

“A person who owing to a well-founded fear of being persecuted for reasons of race, religion, nationality, membership of a particular social group or political opinion, is outside the country of his nationality and is unable or, owing to such fear, is unwilling to avail himself of the protection of that country; or who, not having a nationality and being outside the country of his former habitual residence as a result of such events, is unable or, owing to such fear, is unwilling to return to it..” (cited from HANDBOOK AND GUIDELINES ON PROCEDURES AND CRITERIA FOR DETERMINING REFUGEE STATUS)

「人種、宗教、国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であることまたは政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために、国籍国の外にいる者であって、その国籍国の保護を受けることができない者またはそのような恐怖を有するためにその国籍国の保護を受けることを望まない者及びこれらの事件の結果として常居所を有していた国の外にいる無国籍者であって、当該常居所を有していた国に帰ることができない者またはそのような恐怖を有するために当該常居所を有していた国に帰ることを望まない者」(難民認定研修テキストより引用)

このような難民の定義は、Blog前半で紹介したように、単にプラグマティスティックな問題—機械的に「本当」と「嘘」の難民を選別するメカニズム—として議論されるべきではない。むしろ、その定義自体が「本当」と「嘘」に関する基準を定めていることに目を向けなければならないと思う。つまり、難民の定義が映し出すのは、彼らの現実というよりも、むしろ対象としての難民であって、どのように線引きを行うかである。今回はその中でもこの定義における、「”well-founded fear” 十分に理由のある恐怖」とは一体どういったものなのについて、議論をほんの少しだけ掘り下げていくことにする。

まず、「十分に理由のある恐怖」をアセスメントの根幹に置く、もしくは置くことができるという視点はどのようなことを物語っているのだろうか。UNHCRはこの「恐怖」について、紛争状態にある国から来たという状況証拠よりも、客観的事実に裏付けされた個人のステイトメントに重要性をおいた結果だと述べている。こうした「難民」認定プロセスにおいても、またしても国境という場における証明可能な「あなた」であることの必要性が顔を出す。そうして導入された「あなた」であることの証明の場、その可能性自体が、国際難民レジームにおける人道的措置として表象される。しかし、この人道的という観点が主観的恐怖の考慮を担保としていると考えるなら、その希望はすぐその後の条項によって、もっといえば、国境を越える際に「あなた」である必要性をとうその構造そのものによって否定される。なぜなら、次の条項において、その客観的証明されるべき主観性が約30もの条項を作って詳しく説明されている。こうした個人、主観的なステイトメントを客観的基準において査定するという矛盾は、本来主観的にしか理解しえない「あなた」に対する絶え間ない調査を正当化する。こうして生まれる絶え間ない調査の必要性は、社会的弱者の保護・支援に様々な問題を突きつける。

そのうちのひとつは構造に依存した存在としての難民である。つまり、絶え間ない「あなた」に対する疑問は、それと同時に「あなた」が自分自身では保持できない存在と言われ続けているようなものだ。そういった難民像において、「難民」は国家に助けられるべき存在「国家の被扶養者」として、社会的に虐げられたというよりも、もしくは単に「弱者」として表される。こうした、「あなた」への絶え間ない問いに対して的確な正解を持たない難民は、その保護に対する過剰な依存を押し付けられる。こうして表象される「国家の被扶養者」としての「難民」が国家を代表する「私たち」と対立する「他者」として現れるのだ。

そうした「他者」としての難民は、その境界線においても待つことを強要される。それは、ひとつには「あなた」の証明を、その証明を持たない人々に対して行うために起こる甚大な時間がもたらす結果であり、それと同時に、難民を脅威や負荷とみなす「難民像」の影響である。そうした状況は難民の中でもさらに他者における他者を生み出していく。つまり、この構造内において、「国家の被扶養者」として難民キャンプで待つ「難民」を理想的な難民としたてあげる倫理を生み出していく。そうした状況は、ヨーロッパ各国で治安、衛生といった様々な懸念に応じる形で—その真偽、その人道的、社会的意義を別にして—扶養者としての国家の立場から推し進められる。そこにはやはり、選択者としてその特権を行使する国家とその対象でしか社会システムにおいて表象されない難民との大きな溝があるようなきがする。

今回は、難民の定義についての議論を、構造と機能を形作るという観点から、議論してみた。この「十分に理由のある恐怖」を難民の定義の中心に置くことについての約30もの条項については以下のサイトを参考にしてもらいたい。(Article 37-65 in HANDBOOK AND GUIDELINES ON PROCEDURES AND CRITERIA FOR DETERMINING REFUGEE STATUS 参照)そうすることで、これらの詳細な定義づけのいくつかをピックアップし、掘り下げることによって現れてく難民像というのは一体どのようなものなのだろうかをもう一度考えてみてほしい。例えば、経済的理由から他の国でやむを得ずパスポートをとった人々は経済移民や「偽の難民」と罵られ、単身(家族を持たない)で難民申請を行う中東諸国出身者は十中八九テロリストの疑いをかけられる。カナダでの政府によるシリア難民支援でもはじめのうちはそのほとんどがキリスト教徒であったのは有名な話だし、地球温暖化の影響で増えつつあると言われる環境難民の問題も未解決だ(シリア難民の発生の背景には干ばつによる大量移住があることも指摘されている)。さらには、迫害を行う主体は「国家」や「テロ組織」など政治的悪の権化がそこに存在していないと難民認定は難しく、国家ではなく家族やコミュニティからの宗教的・性的嗜好のための迫害も問題とされている。定義を通して、こういった人々が難民の中でもさらにマージナライズされた、「難民」の定義から外れた存在としてしばしば扱われるのはどうしてなのだろうか。社会システム論からみた難民の定義は国際難民庇護・支援レジームの選択的側面、つまり、客観的という名の下に正当化される、もっとも「難民」らしい人の選択という非人道的側面を浮き彫りにする。このように作り出される「他者」としての「難民」とその中でさらに細分化される「他者」の存在、次回のBlogではそれを国家の管理という観点に戻って話してみようと思っている。